2012年07月29日

その夜、ベイクドポテトに到着した私は、、、ちょっと見慣れない風景を目にした。




いつもなら普通にドアを開けて、そのまま店内に入る。



しかしこの日は、ドアの前に何人もの客が並んでいた。



近づくとブロンドの美女が立っていて、「$20お願いします。 今夜はゲストが出演しますから。」  とテーブルチャージを集めている。






「えーっ、そうなんだ?!」



レギュラーバンドが出演しないことを知った私は、、、完全にあてが外れてしまった。




彼らの音楽を聴きたくて、30分もポンコツを飛ばしてきたのに、、、。





「仕方ない。 じゃ、また来るよ」




そう言って踵を返し、駐車場に向かいかけたところ、、、背後から 「アナタ、きっと後悔するわよ!」 と美女の声。




振り返った私に 「今夜のゲストはちょっと大物なんだから、、。」 と悪戯っぽく微笑んでいる。




そして、そこから先の彼女の話しを聞いた私は、思わず$20を手渡し、、、夢遊病者のようにフラフラと店内に入ったのだった。





結局、その夜の私は 「ついていた」 のだろう。




何しろ、お気に入りのバンドがいなくてガッカリしたら、、、ゲストのミュージジャンは、高校生の頃に心酔しまくった 「ラリーカールトン」 だと言うのだ!



しかも双眼鏡持ってこなければ見えないような、大ホールでのコンサートではない。




演奏者の汗が掛かかってしまうような、スタジオのように小さな店でのライブで。



そして、あろうことか店内に戻ったブロンドの美女が私をが案内したのは、、、、最前列のテーブルだったのだ。





初めて真近に見る 「ラリー カールトン」 は、落ち着いた大人だった。



それもそのはず、、。



ニキビ面の私が彼のレコードを聴いていた頃からは、、、10年近くの時間が経っていたのだから。



そしてその違いは、、彼自身も自覚するものだったのだ。




「かつての私は、こんな風だったよね」



彼はそう言いながら、 まず 「若かりし頃」 のハイテンポなメロディを大袈裟に弾いてみせ、、、皆を笑わせた。



確かに、、、それこそが、私の知る 「ラリー カールトン」 だったのだ。




しかし、その後本格的な演奏に入ると、、、彼の音楽は大きく違っているのが分った。



一瞬私は、イメージの違いに戸惑ったが、時間の経過と共に、抵抗がなくなる。



いや、抵抗がなくなる、というより、、、彼の円熟した技術、無理のないスタイルに、その時の私は、何か安心感のようなものを感じたと言うべきか?




演奏後の彼は店内のバーのお客となり、立ったままビールを飲み出した。



誰彼構わず、皆と気さくに話しをしている。



演奏中、私が真ん前にいたせいか?、、それともその晩、「東洋人」 のお客が少なかったせいか?、、、彼は私にこう話しかけてきた。



「どうだった? 今夜は楽しんでもらえたかな?」



私は緊張しつつも、その夜のライブが最高であったこと、昔の彼も、今の彼も両方素晴らしいと思うことなどを話したが、、、その夜の彼のライブが、私にとって 「偶然」 だったことだけは内緒しておいた。



そして、礼を言いながら私が手を指し出すと、、、彼は満面の笑顔で、握り返してくれたのだ。





あの日からすると、25年後の未来。



YouTube では、、、若かりし頃の彼と、今現在の初老の彼、両方の 「ラリーさん」 がギターを弾いている。



頭の禿げ上がった初老の彼は、、、あの時とは別人のようだ。



そして、それを見ている私もまた、ヒゲに白髪の混じった中年になっている。




あのベイクドポテトの夜から数年後、、、自分のスタジオ 「Room 335」 で銃弾を受け、一時声帯の機能を失いながらも、驚異的なリハビリを経て復活したらしい。



その他、セッションを組んだミュージシャンとの音楽観の違い。



プロデューサーとの契約等の問題。



紆余曲折を経て、、、彼の音楽も、また大きく変っている。





つまり人間というものは、そういうものなのだろう。



赤ん坊がオギャーと生まれてから、段々と立ち上がり、歩きだし、そして話し出す。



身体が大きくなり、声が変り、ヒゲが生え、、、、そして成人してからは、やがて髪が白くなり、目が見えにくくなり、、腰が曲がってゆく。



この間、それぞれに色々なことがあり、、、身体の変化とともに、物の感じ方も変ってゆく。



「表現したいもの」 も 「感じるもの」 も、変ってゆくのは自然なことなのだ。




彼がギターを通して表現していた、若い頃の 「ラリー カールトン」



それを聴いて、感動していた高校生の私。



「変化」 を感じたベイクドポテトでのライブ。



そして、大きく変った今。



時間は、、、互いに同じだけ流れている。




時間の経過と共に、自然と変ってゆくもの。



そして、新たに見えてくるものがある。



懐メロを聴いて面白がっている小学生の娘にも、いずれ解る時がくるのだろう。



何故かちょっと淋しく思いながら、、、私は、パソコンの画面を消した。






(完)


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2012年07月27日

普段の私は、殆ど音楽ど聴くことがない。




「殆ど」 というのは、、、釣行の往復の車中で、眠気覚ましにCDを掛けることはあるから。




でも自分では、CDのプレイヤーもカセットデッキもウォークマンも持っていない。


元々、音があると聞いてしまう性質だからBGMも苦手で、、、パスタイムでも最小限にしている。



そんな私だが、10代初めから20代半ばくらいまでは人並みに音楽に興味があって、、、、家でギターをつま弾いては 「鳥が首を絞められたような声」 で歌ったりしていたのだ。





四半世紀前のロサンゼルス。




20代半ばだった私は、ある夜、北ハリウッドのはずれに向かって、ポンコツのハンドルを握っていた。




目指す先は、「ベイクドポテト」 という小さなライブハウス。





その名の通り、大きなベイクドポテトが名物の、、、小さくてアットホームな店。


毎日日替わりで違ったミュージジャンが出演するタイプの店ではなく、、、普段出演するのは専属のレギュラーバンド。




そして、時折ゲストが出演する日もある、といった感じだった。





しかし、そのレギュラーバンドが凄い。




リーダーのピアニストは、ミュージジャンというより 「年老いたレスラー」 といった風貌。


ところがその見た目とは裏腹に、、、非常に知的で繊細な旋律を奏でるのだ。




その他、トランペット、ベース、ドラム、、それぞれが皆一流で、尚且つ味のあるキャラクター揃い。



そして何よりも、個々の 「職人」 の研ぎ澄まされた技術が、、、曲の終盤に向けて見事に融合してゆく。



その感覚に、完全にシビレた。





ある時、たまたま知り合いに連れてこられた私は、このレギュラーバンドがすっかり気に入ってしまい、、、以後、バイト代を貯めては、せっせと彼らの演奏を聴きに行くようになっていたのだ。






(続く)


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2012年07月25日

先日の夜遅く、長女が 「懐メロ」 を聴かせろ、とせがんできた。




どうやら学校で誰かから聞いてきたのか、、、リクエストは何と 「フィンガーファイブの、恋のダイヤル6700」 と 「左ト全(ヒダリボクゼン)の、子供と老人のポルカ」 


どちらも私が小学生の頃の歌だ!



これがご記憶にある方は少なくとも私と同年代、もしくはそれ以上のお年ということになるから、、、このブログを読んでいらっしゃる方の大半は、ご存じないのではないか、、、?





「フィンガーファイブ」 に関しては、確か当時小学校高学年だったボーカルの少年が私と同年代で、、、その上同じ 「東村山」 の小学校に通っているということだった。


大きなサングラスをかけて、とても格好良く見えた記憶がある。



「左ト全」 に関しては、もっと前だった筈。




私は、小学校低学年だったのではないか?




「ズビズバー」




かなりのお爺ちゃんだった氏のユニークな歌い出しが印象に強い、コメディータッチの歌だった。





こんな40年も前の歌を?と首を捻りながらもYouTubeで探すと、、、あったあった!




「リンリンリリン、リンリッリリンリン、リンリンリリン、リーリリリン、明日は卒業式だから〜」




こちらは 「恋のダイヤル6700」




「ズビズバー、パパパヤー、やめてケレ、やめてケレ、やめてケーレ、ゲバゲバ」




そしてこちらが 「子供と老人のポルカ」



私にとってはどちらも実に懐かしい曲で、、、面白がる長女と、何度も繰り返し聞いてしまった。




ひとしきり聴くと、、納得した長女は 「ズビズバー」 と口ずさみながら部屋から出て行った。



どうやら 「子供と老人のポルカ」 が特に気に入ったようだ。



一人になった私は、流れのまま 「懐かしの洋楽」 を探していたが、、、そこで、若き日の 「ラリーカールトン」 のギター演奏に行き着いたのだ。




高校生の頃。



彼のギターに心踊った。



初めて耳にしたのは 「ルーム335」



これは南カリフォルニアにあった、彼自身のスタジオの呼び名だ。



私の知る彼の音楽は、正確にはロックでもジャズでもブルースでもなく、、、たぶんこれら全てが融合した 「フュージョン」 というジャンルに入るのだろう。



一部の曲を除いて、基本的にボーカルはなし。



いわゆる 「インストロメンタル」 のギター演奏者だ。



当時の誰もがそうであったような 「長髪」 のミュージシャンらしい風貌。




しかし、YouTubeに映る若き日の氏の風貌は、、、私の 「あの日の記憶」 とかなりずれているのだ。






(続く)


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2012年07月22日

昨日、いよいよ小学校が夏休みに入った。




今朝、目覚ましのコーヒーを飲んでいると、、、一年生の次女が通信簿を持ってきて、見ろ見ろせがむ。




なるほど、次女にとっては 「初めて貰った通信簿」 ということになるし、、、余程自慢したい成績なのか?





しかし 「あゆみ」 と書かれたその通信簿を広げて見ると、、、「ん?」




たった三段階の各教科の評価の半分くらいは、真ん中。



「体育」 や 「家庭科」 に到っては、全てがそうだ。





ここで、6年生の長女が飛んできた。



「こらっ、勝手に見せないでよー!」




なるほど、私が見ていたのは 「長女の成績」 だったというわけか。





「うちのはこれ」




次女は、改めて自分の通信簿を見せる。



誉められることを期待してか、、、鼻の穴が、思い切り膨らんでいる。




確かに、「良く出来ました、のパーフェクト」




だが良く見て、、、笑ってしまった。



元々評価が、たったの 「2段階」 しかないのだ。



これなら余程のことがない限り、、、皆同じことになるのだろう。




「凄いねー!」



おだてられた次女は、、、大事そうに 「あゆみ」 をしまっている。



「ふん。 うちだって1年の時はそうだったよ!」



反対に、不貞腐れる長女。



しかし 「国語が急に良くなったな。 本をたくさん読んでるせいだろうな」 と誉めると、すぐに機嫌を直した。



身体は随分と大きくなったが、、、まだまだ子供なのだ。




小学校の頃の自分を想い出した。



やたらに 「頑張りましょう」 の並んだ通信簿。



人に見せる気にもならず、、、学校帰りに 「ドブ」 に捨てたこともあった。




学校から帰ってきて、宿題をした記憶はゼロ。



放課後の時間の大半は、 「山や池」 「ボーリング場」 や 「釣り堀」 、、、それから週末は 「少年野球」 をしていたのだから、、、成績が良い訳がない。



それでも今、こうして何とか生活しているのだから、、、世の中 「なんとかなる」 ということだろう。



もっとも 「日本」 という国自体が数々の困難に直面している今、、「時代が違う」 といってしまえばそうかもしれないし、、、世間のもっとマシな生活をしている方から見れば 「だからあなたは今そんな程度なんですよ」 と言われそうだが、、。



しかしこういったことは、、、本人がいいと思えばそれでいいのだ。






今年の春、子供達を連れて今は亡き 「シカゴのボブさん」 の奥さんを訪ねた時のこと。



「夏休み」 の話をしていて、本当にびっくりされた。



「夏休みが、たったの40日しかないの?!」 「夏休みに宿題があるの!?」 



私が彼女や幾人かの友人達に、「日本では、夏休みにですら集中的に塾通いをする子供たちがいること」 を説明すると、、、彼女らの驚きは、次第に同情に変わっていったのだ。



「可愛そうに、、。 夏休みがそんなことで終わったら、子供達、一体いつ遊んだらいいの?」





ご存知の方も多いと思うが、、、アメリカでは夏休みが 「2ヶ月半」 ある。



そしてその間 「宿題」 は一切ない。



これはアメリカに限らず、欧州の多くの国でも概ね 「似たり寄ったり」 のようだ。




2ヶ月半もの間、親たちは毎日付き合える訳ではないから、、、アメリカの多くの子供たちは、ボーイスカウトその他の主催する 「長期のキャンプ」 にも参加して遊ぶ。



そしてこの 「キャンプ」 は、遊びを通して子供たちに団体行動を取る上での 「協調性」 や 「規範」 を学ばせる場にもなっている。



そして、ここが問題だが、、、、そんなに遊んでいる時間が長く、塾にも行かない子供たちの学力が日本の子供に劣るかというと、、、残念ながらそうではなく、近年ではむしろ反対なのだ。



実際、近年 「子供の学力が最も高い」 とされているフィンランドでは、、、夏休みばかりか、普段から 「宿題」 は皆無のようだ。




確かに、国が違えば事情も違う。



終戦から67年。



高度成長期、、、 「エコノミックアニマル」 などと批判されながらも、頑張りまくった日本人。



先進諸国に追いつけ、追い越せ、と。



「軍」 を持つことを禁じられた日本にとって、、、「敗戦」 に対する唯一のリベンジは、「経済大国」 になって見返すことだった筈だ。




余裕のバカンスを楽しむ先進国の国民を横目に、、、日本人労働者の休みは、日曜日だけ。



長期休暇など、夢のまた夢。



そして、残業に続く残業。



そして、、、確かに日本は 「奇跡的な経済成長」 を見せ、経済大国になった。



「焼け野原」 となった東京を、 「アンティーク時計屋」 などという商売の成り立つ大都市に復興させたのは、、、日本人の 「比類なき真面目さ」 なのだ。





しかし、、、私達親にはブレーキが必要だ、と思う。



何でも、やり過ぎは良くない。



夜の街で、、塾帰りの子供達の 「無表情な顔」 を見るたび、私は思う。



「甘やかせてはいけない。 でも、もう少しゆっくり楽しませてからでいいではないか。」




人生は、「42.219キロ」 より遥かに長いマラソンだ。



最初から飛ばし過ぎては、、、確実に後で堪える。



そして大人になって、本当の 「頑張り時」 がやってきた時に、、、息切れしてしまう。




遊びは子供の仕事。



遊びたいだけ遊ばせればいいのだ。



本人が 「勉強したい」 という場合は別。



その子にとっては、勉強することが 「遊び」 なのだから。




だから、娘達の通信簿を見た私は、、、内心、こう思っていた。



「よしよし。 これじゃ、まだまだ遊んでる余地があるな」 と。



そして 「夏休み」 は、、、まだ始まったばかりなのだ。



posted by Masa’s Pastime at 18:15 | Comment(0) | 新着情報

2012年07月20日

またまた、やってしまった。



と言っても今回は 「寝坊」 や 「飲み過ぎ」 ではなく、、、「仕入れた時計」 の話し。



先日アメリカの取引先から届いた時計が 「失敗」 だったのだ。





時計屋になって23年、それなりには年季が入って失敗は減ったが、、、やはり0にはならない。




いや、0にならないどころか、いまだに全体の一割くらいは失敗ではなかろうか。



もっともここで言う 「失敗」 は、いわゆる 「偽物」 を掴まされたとか、「修理できない時計」 を買ってしまった、ということではない。




「きちんと直したら、採算が合わない時計」 を買ってしまった、という意味なのだ。




ここで、これを読んだ皆さんは不思議に思うかもしれない。



「長年時計屋をやっているのに、何故そんな失敗をするのだろう?」



「店主に学習能力が無いのではないか?」 と。



確かに、学習能力に関しては少々自信が無いが、、、そうでなかったとしても 「避けることが出来ない部分」 があるのは確かなのだ。




かつて時計を買い付けるにあたっては、現地まで頻繁に足を運んでいた。



その殆どは、最も品物の豊富なアメリカ。



アメリカ時計が豊富なのは勿論だが、、、スイスやドイツの高級品の多くは、当時富の集中していたアメリカ向けに輸出されていたからだ。



私が一人で出掛けてゆく以外に、年に一度は店を閉めて、全員で行っていた。




全員がいる場合、買い付ける時計の 「品定め」 はより念入りになる。



私が隅から隅まで見て 「問題なし」 と判断したものを、次に渡す。



2番目のチェックで問題が発見されなければ、次、、そしてまた次。



5人全員がそれぞれ違った目でチェックし、問題のない時計を購入してゆく、という訳だ。




ところが、、ところがである。



帰国後、店の工房で品出し前の 「分解・点検」 を行うと、、、この中からも 「問題児」 が出てくるのだ。



現地では見ることの出来なかった 「受け板の下」 や 「文字盤下」 の部品を始め、、、場合によっては主要部品である 「地板や受け板」 の裏側の打撃、欠損、改造等、、。



例えば、折れてしまった 「歯車の歯」 がハンダ付けされていたりする場合、、、取り敢えず機能自体は損なわれていない場合が多い。



これが受け板などに隠れていた場合は、、、、現場でどんなに念入りにチェックしたところで、分る訳がないのだ。




何人もの目で、穴の開くほど見てもこんな具合だから、、、取引先との 「画像とメールのやり取り」 で判断することが多くなった最近は、より難しくなった。



長年の付き合いの連中は 「故意」 に問題児を薦めることはないが、、、かといって、先方も一々全ての時計を分解して細部まで確認してはいられない。



そして、 「現状取引き」 が慣習のプロ同士の取引では、後から 「ここがダメだった、あそこが悪かった」 というのはご法度。



「品物選び」 は、あくまでも 「自己責任」 なのだ。




一方で、100年以上も経過している時計に 「完全無欠な状態」 を期待するのは、非現実的。



程度の差こそあれ、多少なりとも 「消耗すべき部分」 は消耗しているのが当たり前だし、、かつていじった時計屋が粗相して 「ルビー」 を割ってしまったりしている部分もある。



しかし、それはいいのだ。



何故なら、、、少なくともまともなグレードのアンティークウォッチに関しては 「消耗すべき部品」 や 「一定頻度で破損の予想される部品」 は、、、、腕と道具さえがあれば、いくらでもそれ単体が製作・交換できるように作られているから。



つまり、こういう類の作業に関しては、最初からこっちも計算に入っている訳だ。



問題なのは、、、完全に修復していると時間が掛かり過ぎて、採算が合わなくなる時計。




例えばここに、修復後の 「店頭販売価格」 が、¥200.000程度の時計があったとしよう。



この時計を検品していて、、、、熟練した技術者にとっても 「のべ20日間の作業が必要な欠損」 が確認されたとする。



極端な話し、この時計の仕入れ費用が、たった 「1円」 であったとしても、、、、修理することはない。



何故ならそれは、、、「¥200.000を得るために、それ以上のお金を払う」 ことになるから。



これは 「片身の時計」 や 「思い入れのある時計」 の修復をお預かりする場合とは、全く別の次元の話しなのだ。




さてさて、、、こんな 「失敗」 の時計達はどうなるか?



泣く泣く、、工房の一番奥、突き当たりの 「ジャンク用引き出し」 にお蔵入りすることになる。



しかし 「全く無駄」 になると決まったわけではなくて、、、僅かな 「救い」 はある。



何故なら、「同型の時計の修復」 の際に、その 「部品」 が利用できることがあるから。



言ってみれば、、、、臓器提供における 「ドナー」 のようなものか。




引き出しの中に溢れんばかりの 「失敗の残党」



中には、20年以上前から居座る奴もいる。



あまり増え続けて欲しくないのが、本音だが、、。



その一つ一つには、、、「ほろ苦い想い出」 が詰まっているのだ。


懐中時計 東京 腕時計

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2012年07月18日

ついに梅雨が明けた!




例年よりも幾分早めの梅雨明け。



勿論、早くて悪いことは何もない。




ジトジトした暗い天気の続く中、、、この日を待ちに待っていたのだ。





それにしても、一昨日の暑さは凄かった。




内陸部の盆地では、気温が40度近いところがあったようだが、、、私達が 「磯遊び」 していた伊東の暑さも、先日訪れた沖縄の久米島と遜色なかったほど。




小さな潮溜まりでヤドカリなどと遊んでいると、、、既に真っ黒になっている肌が、更にジリジリと焦げるような、強烈な日差しを感じた。





そして微かに落ち着いたとは言え、、、東京に戻っていた昨日も、ほぼ同様。




鉄筋コンクリートの団地の部屋はまさに温室状態で、、、水槽の水温は30度まで上昇。



魚達やその他イソギンチャク等の 「水槽の住人達」 も夏バテ気味になり、、、エアコン嫌いの私も、さすがに一時助けを借りることになったのだ。





しかし、一番の問題は、店の空調。



パスタイムには、店の奥と手前に2機のエアコンがあるが、、、少し前から手前のエアコンは壊れて稼動していない。



お客様のくつろぐ応接部分は涼しいが、ガラスに面した店の前部にいる私と辻本は、、、ビニールハウスの中で作業しているような状態だ。




エアコンの修理には20万円ほど掛かるようだが、、、これは仕方ない。



問題は、タイミング的に 「すぐに修理」 とならないところ。



どうせ一番暑い今のタイミングで直らないのなら、しばらくはそのまま放っておいてもいいかな?などとも思っている。




結局、夏は暑くて当たり前。



その方がビールは旨いし、水遊びも楽しい。



天才バカボンじゃないが、、、、夏好きの私にとっては、「これでいいだ!」


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トラブル続きの初日の朝とは反対に、、、その後の旅は至って順調だった。




梅雨明け直後の久米島は、連日、まさにカンカン照り。




宿題や習い事から解放された子ども達は、馬鹿のように大はしゃぎしている。





毎日、朝から晩まで海やプールで泳ぎ、、、早朝や夕暮れ時には、港や浜で、お約束の 「釣り」




その他、 「はての浜」 と呼ばれる沖の浅瀬に船で渡ったり、レンタカーで島中を走り回って、良さげなリーフをみつけてはシュノーケリングしたり。




去年の渡嘉敷島に続き、終日遊びっぱなしの 「南の島」 は実に快適で、、、本当に 「言うことなし」 の夏休みになったのだ。





ただ、そんな素晴らしい島での滞在中、、、一つだけ気にかかったことがあった。




あちこちで、、、、明らかに 「意味のない公共工事」 が行われているのが、やたらに目に付いたのだ。





亜熱帯性の木々が生い茂る山肌が削り取られ、、、露出した赤土。




ダンプカーがセメントを運び込み、新たなコンクリートの道が作られる。




しかしよく見れば、、、、その殆どが、既に充分整備された島の 「周遊道路」 のちょっとしたカーブを直線にしたり、いくらか近道出来るようにする類のもの。



正直、こんなところに道を作って、一体 「一日に何人の人が利用するのか?」 と首を捻るようなものばかりだった。




削り取られた赤土に、雨が降る。



雨水は赤土を流しながら、川に入り、海に注ぎ出る。



そしてこの赤土は、、、やがて珊瑚を死滅させてしまう。



まだまだ美しい珊瑚の残るこの海にも、そういったところが何箇所もあり、、、心が曇った。




帰りの日。



「今、久米島の人口は何人くらいですか?」



空港に向かうタクシーの中で、私より少し年配の運転手に訊いてみる。



「今は8000人ほどです。 でも50年前は18000人以上いたんですよ。」



なるほど、、、この50年で、人口は半分以下になってしまったということか。



人の良さそうなその人は、更にこう続けた。



「若者はみんな沖縄本島や内地に出てしまうからね、、。 でも、残れって言ったって、無理。 何しろここには仕事が無いんですから。」




島の主な産業は、「サトウキビ」 と 「観光」 



その他 「久米仙」 を始めとする、焼酎の製造等。



以前は米作りが盛んで、島中 「水田」 だらけだったそうだが、、、日本政府の施行した 「減反政策」 以後、どこもサトウキビ畑になったようだ。




仕事がないから若者は流出し、、結果、過疎・高齢化が進む。



雇用を増やし、経済活動を活発化させる為の対策が 「公共工事」 、、、そして、それを推す政治家が票を集め、当選する。



当選した政治家は、次期の選挙を睨んでより多くの予算を公共工事に付けようと必死になり、、、その功績は、再び 「票」 となって返ってくる。



ご存知の通り、、、こういう構造はこの島に限らず、日本列島全体に永く巣食っているものだ。




都合のいい時だけ遊びに来る私達 「外部の人間」 は、単純にこう思いがちだ。



「意味のない公共工事など、税金の無駄遣いではないか!」



しかし 「公共工事」 に一定の雇用増大の効果があるとすれば、、、そこに住む人達にとっては、その内容に関わらず 「それ自体」 に意味があり、、、 「意味のない公共工事」 など存在しないとも言える。




現状 「公共工事」 がどうしても必要ならば、、、せめて 「使わない道路」 の建設に当てられる予算を、既に壊してしまった環境の 「復旧や保全」 に付け替えることは出来ないものか。



同じ予算が付き、従来の技術が生かせるのであれば土木や建築の業者にとっても悪いことは無いだろうし、、、珊瑚礁をはじめとする島の環境の保全は、将来の 「観光収益の増加」 にも必ず繋がる筈なのだ。




そんなことを考えているうち、、、小さなプロペラ機は、唸りをあげて飛び立った。



窓の下を覗くと、あちこち 「青のグラデーション」 の絶景だ。  



やがて久米島の姿は遠く離れ、、、雲の向こうに消えていく。



私は、久米島がいつまでも美しい島であって欲しいと願いつつ目を瞑り、、、、楽しかった夏休みの余韻に浸った。






(完)


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「生みの苦しみ」 から解放された私は、手洗いもそこそこにトイレから飛び出してJALのチェックインカウンターに駆けつけた。




しかし、カミさん達は、どこにも見えない、、。



カウンターには、チェックインを待つ人々が列をなしていたが、、、特に急いでいる様子はないから、どうやら、皆 「別の便」 の搭乗客のようだ。





頭上の掲示板で確認したところ 「6時20分の那覇行き」 は、、、定刻通りの出発予定。




むしろ、少々遅れてくれていたら助かったのだが、、。




それにしても、、残り時間が無い。



私達以外の乗客は既に座席に腰掛けて、、、、飛行機の離陸を待っている筈なのだ。





なんとか事情を話そうと、カウンター前に立ったその時、、。



「父ちゃん!!」



声の方を振り向くと、、、難民のように荷物を満載したカートを押している、カミさんと子供達が見えた。




ほぼ同時に 「JAL〓〓便にて那覇に向かうお客様、いらっしゃいましたら、至急お申し出下さい!」




地上職員の、緊迫した叫び声。




「お願いします!!」




すがりつくように駆け寄った私達に、テキパキと優先的な搭乗手続きが行われた。





手続き後、職員付き添いのもと、大急ぎでセキュリティーチェックへ。




ところが、ここでも私は失態を演じてしまった。




腰に着けていたウエストポーチに、「アンティークのサバイバルキット」 が入っていて、、、セキュリティーで止められてしまったのだ!





ポケットサイズのキットには、「ナイフ」 やら 「ヤスリ」 やら 「危険物」 と見なされるものが色々付いている。




当然、機内には持ち込めないから 「預け荷物扱い」 にするしかないが、、、手続きをしている時間は、、、ない。




その場で 「いらない」 と言って放棄すればそれで済むことだが、、、そうはいかなかった。



何故なら、、、これは2年前に亡くなった 「シカゴのボブさん」 から、生前に譲り受けたものなのだ。





「なんで同じ失敗を繰り返すのよー!」




私に食って掛かる長女。




無理はない。




このウエストポーチは去年の沖縄旅行の際にもしていたものだが、、、私はその時も全く同じことをしでかして、搭乗前にバタバタしたのだ。





「じゃ、どうされますか?」



私にそう訊いたセキュリティーの男性職員は、少し苛立っていた。



「んー、、、。」 



時間は無いが、妙案が浮かばず、、、しばし沈黙。 




「分りました。 なんとかやってみましょう!」




付き添ってくれていたJALの女性職員はそう沈黙を破り、、、私と一緒にチェックインカウンターに走って戻るとそこの同僚に掛け合い、猛烈な勢いで手続きを済ませてくれた。






こうして 「怒涛の起床」 から約1時間20分後の6時20分過ぎ、、、周囲に散々迷惑を掛けながら、ボサボサ頭の私達一家は、機上の人となったのだ。






(続く)

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無我夢中で甲州街道を走って左に折れると、ようやっと国立インターが見えてきた。




時刻は、「5時20分」 過ぎ。




飛行機の 「離陸」 まで、、、既に1時間を切っている。




やっぱり無理か、、。





更にここで、私は 「大ポカ」 をしていることに気づいた。




ふと燃料計を見ると、、、ガソリンが 「最後の一目盛りの半分くらい」 しか残っていなかったのだ!




インター入り口手前にはガソリンスタンドがあるが、、、給油している時間がない。




かといって高速道路で燃料切れを起こせば、、、一巻の終わりだが、、。




一瞬の逡巡の後、、、運を天に任せた私はそのまま中央高速に乗り、首都高に向けてひたすら走った。





「父ちゃん、スピード出し過ぎ!」




助手席の長女は怖がったが、、、普通に走ったのでは、どうやっても望みがないのだ。




もちろん事故を起こす訳にはいかないし、交通違反で捕まる訳にもいかない。




燃料切れも、論外。




切羽詰まった私は、「前方」 と 「バックミラー」、それから 「燃料計」 を交互に見ながら、、、ひたすら先を急いだ。





新宿を通過したのは 「5時35分過ぎ」 だったか。




とにかく時間がない。



幸い日曜日で首都高に渋滞はなかったが、、、このあたりから少しずつ車が増えて、走りにくくなった。





「ガソリン大丈夫?」




心配そうに話しかけてくる長女。




エスティマの燃料計は助手席のほぼ正面にあるから、彼女にもよく見えているのだ。




「、、、」




燃料計がほぼ振り切っているのは、分っていた。




だが私はこの時、、、「全く別の理由」 で、口を利ける状態ではなくなっていたのだ。





普段の私は、目覚めると同時に、決まってトイレを済ます。



だが、この朝はそれどころではなかったし、、、暴走運転に伴う極度の緊張のためか、それを意識することがなかった。



ところが、一瞬 「もしかしたら間に合うかもしれない」 という希望が頭をかすめた瞬間、、、、急に下腹が痛くなって、催してきたのだ。





「ちょっと話し掛けないでくれ。 トイレが、、。」



「時間がない」 「燃料がない」 に加えて、今度は 「生みの苦しみ」 



三重苦を背負った私は、脂汗をかいて前屈みになりながら、、、、なんとかハンドルを操り続けた。





ほとんど燃料のなくなった車は、お台場近辺を通過した。



時刻は 「5時50分過ぎ」 



羽田まで、もう一息だが、、。



燃料計は、完全に振り切っている。



暴力的な下っ腹の締め込みは、その 「周期」 が短くなり、、、我慢の限界が近づいていた。




何時エンジンが止まるか分らない状態の中、、、私は一瞬、「最悪の場面」 を想像した。



「ガス欠でエンコ」 → 「高速道路上で野○ソ(?)」 → 「久米島旅行の断念」



それだけは何とか避けたい。



そんなことになれば、、、色々な意味で、幼い子供たちの心に 「醜い傷跡」 を残すことになるのは間違いないのだ!



しかし、耐え難い 「陣痛」 は、容赦なく襲い掛かってくる。



覚悟を決めた私は、長女に 「コンビニのビニール袋」 を用意するよう言いつけ、、、「万一」 に備えて走り続けた。





「6時ギリギリ」



空港が見えてきた。



「西部警察」 のような運転でターミナル前に車を着けた私は、、、空港内のトイレに突進。



代わってカミさんが車を駐車場に入れ、、、子供たちと共に、猛ダッシュで荷物をチェックインカウンターに運ぶ、という段取りになった。




救われたような気持ちで、男子トイレに突入した私。



しかし、実に不ウン(?)なことに、、、3つある扉のカギは、全て 「赤マーク」 !



祈るようにして待つも、、、誰も出てくる気配がない。




人間、一度 「もう大丈夫」 と気を緩めてからの我慢には、自ずと限界がある。



一瞬、血迷って 「女子トイレ」 に行きかけたが、、、、これが 「問題」 になれば、全てはパーになることに気付き、断念。



仕方なく、、、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、、身を捩りながら歯を喰いしばることしばし。



「ザーッ」 という流水音に続いて 「カチャ」 っと一番手前のドアが開き、、、遂に私は、「全ての苦しみ」 から解放されたのだ。





(続く)



※ このブログはフィクションであり、道路の走行条件、所要時間等は実際のものではありません。

posted by Masa’s Pastime at 08:42 | Comment(0) | 新着情報

2012年07月08日

そのうち、、、ふと目覚めた。




ちょっと二日酔い気味、、。



まだ皆寝ているし、携帯電話のアラームも鳴っていないから、起きたのが早過ぎたかな?と思ったが、、、何か様子がおかしい。




ボンヤリと霞が掛かったような頭がハッキリしてくると、、、何と、カーテン越しに朝日が射して、部屋が薄明るくなっているではないか!






「いかんっ!」




瞬間身体に電気が走ったように感じて、跳ね起きた。



居間に飛び込んで壁に掛かった安物のクオーツ時計を見る上げると、、、「5時10分過ぎ」 を指している!



自分の勘違いであって欲しいと願いながら、飛行機の出発時間を確認したが、、、残念ながら 「6時20分発那覇行き」 に間違いなかった。






「起きろっ! 間に合わない!」




大声で叫ぶと、全員が飛び起きた。




カミさんや長女は 「エーッ!」 とか 「何でー!?」 などと叫びながら慌てて着替え始め、、、事態を察した次女は、大声で泣き出した。




「何でもいいからそのまま出ろ!」




一秒でも早く出発しなければ、、、というより、既に望みは薄いのだ。






一瞬、家中がパニック状態になった。



玄関にあった大量の荷物を抱えられるだけ抱えて飛び出した私は、エレベーターのボタンを押したが、、、なかなか上がって来ない。




「早く、早く!」



やっとのことで地上に降り、追いついてきた家族と荷物を車に叩き込むと、、、車のデジタル時計は、 「5時18分」 を表示していた。





大急ぎで 「中央高速国立インター」 に向かいながら、頭の中で逆算する。




羽田の出発時刻は 「6時20分」



その20分前に滑り込みでチェックイン出来たとしても、、、チェックインカウンターに、6時までに入らなければならない。




空港の駐車場に車を入れる時間も考えると、、、残された時間は、最大 「35分」 か。




しかし 「国立インター」 まででも、最低10分以上は掛かるのだ。



悔しいが、、、まず間に合わないだろう。






「イヤだー! 行きたかったー。 何で起きなかったのー?!」




後部座席で、激しく泣き続ける次女。




その次女をなだめながら、、、自分も泣き出しそうな顔をして、次の出発便の空席状況を調べるカミさん。



そして、既に覚悟したのか諦めたのか、、、助手席でおとなしく座っている長女、、。





カミさんによると、次の 「那覇行き」 の便は、いくらか空席があるようだ。



しかし 「那覇→久米島」 の便は、、、少なくとも3日間は 「満席」 らしい。




つまり那覇までは行けても、、、久米島には飛べないということ。



いくらも乗れない小さなプロペラ機だから、、4人分のキャンセル待ちをしても無駄だろう、、。





「久米島行きたかったよー!」 泣き止まない次女、、。



無理もない。



この日を、指折り楽しみにしてきたのだ、。





「国立インター」 に向けて乱暴にアクセルを踏み込みながら、、、私は寝坊した自分の頭を引っ叩きたくなっていた。






(続く)


posted by Masa’s Pastime at 15:18 | Comment(0) | 新着情報