「まったく、、、時計なんか携帯電話に付いてるじゃない。 必要ないわよ。 無駄!」
時計のショーケースを前にして、旦那さんが奥方に叱られている。
これは、ある日のパスタイムでの光景。
実をいうと、それほど珍しくない、、、というより良くあるケースだ。
時計を 「時間を知るための道具」 と考えた場合、奥方の意見は至極もっともだ。
いや奥方だけでなく、これは世間一般に広く受け入れられる意見であろう。
一方で時計そのものを愛する愛好家にとっては、時計は単なる 「道具] ではない。
こういった人々は、工芸品として、美術品として、そして精密機械としての美、、、つまりおおよそ日常の必要性からはかけ離れたものを求めている訳だ。
私達の先祖が、原始生活を始めた頃のことを考えてみよう。
皆の興味の対象はまず、「飲む(呑む、ではない)」 こと、「食べること」 だったろう。
草をむしったり木の実を拾ったり、それから動物や魚を捉えたり、川や湖の水を飲んで生きていた筈だ。
最初のうちは何でも 「手掴み」 だったろうが、そのうち効率良く獲物を捕らえたり水を汲んだりするために 「道具」 を作るようになる。
この時点では、道具はあくまでも必要な目的を達成するためのもの。
だから石器時代の道具には不必要な装飾などが施されていない。
しかし、そのうち生活が安定してくるとどうなるか?
よりおいしい食べ物、よりも見栄えのいい衣服、より快適な棲家、と欲が出てくる。
そしてこの頃になると、道具や棲家の壁に模様が刻まれたりするように。
この時点で 「無駄」 が出現するわけだ。
動物の行動にはほとんど存在しない、この無駄。
ある意味 「高度な知能、知性」 の現れとも言えるが、これが更に磨きぬかれ、やがて 「芸術」 の域に達するのは皆さんご存知の通り。
話しを 「時計」 に戻すと、、道具として優れた時計は巷に溢れている。
定期的な電波補正により誤差がなく、尚且つギリギリまで低コストになった時計。
どこに居ても正確な時間を知る為の道具であればこれほど優れたものは過去に無かったし、道具である以上それでいいのだ。
しかし当然のことながら、、、これらはちっとも面白くない。
何故ならそこにあるのは利便性だけで、「美しい」 とか 「心が躍る」 というような感動とは無縁のものだから。
パラドックスのようだが、、、 「面白くない」 というのは大変な 「時間の無駄」 ではないか?
人間オギャーと生まれた瞬間からやがて土に帰るまで、時間は限られているのだ。
その限られた時間をいかに楽しめるか?
いつか 「これでおしまい」 という時に 「あー、面白かった。 充分に楽しんだから、もういいや」 と納得出来るか。
無論 「人生観」 は人それぞれだが、、、恥ずかしながら崇高な人生観を持たない私は、いつもこんな風に思ってしまう。
「面白くないもの」 は 「無駄なもの」 だと。
もっとも、こんなバカ話を店頭の奥方にすることはない。
何故なら、、、聡明な奥方は、そんなことは良くご存知だから。
ご主人が見ていた時計をキラキラしたダイアの指輪にすりかえた途端、、、「アラッ、綺麗!いいわねー!」
これこそまさに 「無駄な」、、いや 「必要な」 ものではないか!!
時計のショーケースを前にして、旦那さんが奥方に叱られている。
これは、ある日のパスタイムでの光景。
実をいうと、それほど珍しくない、、、というより良くあるケースだ。
時計を 「時間を知るための道具」 と考えた場合、奥方の意見は至極もっともだ。
いや奥方だけでなく、これは世間一般に広く受け入れられる意見であろう。
一方で時計そのものを愛する愛好家にとっては、時計は単なる 「道具] ではない。
こういった人々は、工芸品として、美術品として、そして精密機械としての美、、、つまりおおよそ日常の必要性からはかけ離れたものを求めている訳だ。
私達の先祖が、原始生活を始めた頃のことを考えてみよう。
皆の興味の対象はまず、「飲む(呑む、ではない)」 こと、「食べること」 だったろう。
草をむしったり木の実を拾ったり、それから動物や魚を捉えたり、川や湖の水を飲んで生きていた筈だ。
最初のうちは何でも 「手掴み」 だったろうが、そのうち効率良く獲物を捕らえたり水を汲んだりするために 「道具」 を作るようになる。
この時点では、道具はあくまでも必要な目的を達成するためのもの。
だから石器時代の道具には不必要な装飾などが施されていない。
しかし、そのうち生活が安定してくるとどうなるか?
よりおいしい食べ物、よりも見栄えのいい衣服、より快適な棲家、と欲が出てくる。
そしてこの頃になると、道具や棲家の壁に模様が刻まれたりするように。
この時点で 「無駄」 が出現するわけだ。
動物の行動にはほとんど存在しない、この無駄。
ある意味 「高度な知能、知性」 の現れとも言えるが、これが更に磨きぬかれ、やがて 「芸術」 の域に達するのは皆さんご存知の通り。
話しを 「時計」 に戻すと、、道具として優れた時計は巷に溢れている。
定期的な電波補正により誤差がなく、尚且つギリギリまで低コストになった時計。
どこに居ても正確な時間を知る為の道具であればこれほど優れたものは過去に無かったし、道具である以上それでいいのだ。
しかし当然のことながら、、、これらはちっとも面白くない。
何故ならそこにあるのは利便性だけで、「美しい」 とか 「心が躍る」 というような感動とは無縁のものだから。
パラドックスのようだが、、、 「面白くない」 というのは大変な 「時間の無駄」 ではないか?
人間オギャーと生まれた瞬間からやがて土に帰るまで、時間は限られているのだ。
その限られた時間をいかに楽しめるか?
いつか 「これでおしまい」 という時に 「あー、面白かった。 充分に楽しんだから、もういいや」 と納得出来るか。
無論 「人生観」 は人それぞれだが、、、恥ずかしながら崇高な人生観を持たない私は、いつもこんな風に思ってしまう。
「面白くないもの」 は 「無駄なもの」 だと。
もっとも、こんなバカ話を店頭の奥方にすることはない。
何故なら、、、聡明な奥方は、そんなことは良くご存知だから。
ご主人が見ていた時計をキラキラしたダイアの指輪にすりかえた途端、、、「アラッ、綺麗!いいわねー!」
これこそまさに 「無駄な」、、いや 「必要な」 ものではないか!!